2007/02
長崎への遊学者たち君川 治



海軍伝習所と医学伝習所の跡地を示す石碑
 江戸時代、長崎出島が西洋への唯一つの出入り口であった。オランダ商館には商館付医官がおり、医学のみならず西洋の進んだ科学や文化を伝えてくれた。新しい医学や学問を志す人達の多くが長崎を目指したが、飛行機も汽車も無い当時の長崎は江戸から片道約2ヶ月を要し、現在の海外留学より遥かに遠い地であった。長崎遊学は熱意と体力と資力を必要とするものであった。
 当時、長崎遊学者やオランダ通詞のネットワークができていたと思われる。前野良沢のオランダ語の師青木昆陽は1744年に長崎に遊学し、良沢も1770年と73年の2回長崎に遊学して、通詞吉雄耕牛に入門している。杉田玄白の弟子で江戸蘭学の中心人物となる大槻玄沢は1785年に長崎に遊学し、吉雄耕牛、本木良永、志筑忠雄について学んだ。
 長崎遊学の第1期は長崎通詞の吉雄耕牛、本木良永が中心人物であり、少し後になって志筑忠雄、吉雄権之助、馬場佐十郎の時代となる。
 第2期はシーボルトに代表されるオランダ商館付医官が中心である。シーボルトの鳴滝塾で学んだ蘭学医は江戸三大医家の戸塚静海、伊東玄朴を始めとして高野長英、岡研介、小関三英など綺羅星の如く、緒方洪庵は1836年に長崎に遊学してオランダ医官ニーマンに学んだ。
 第3期は幕末、長崎海軍伝習所や長崎医学伝習所に学んだ人達だ。この頃になると医学者だけでなく幕府や各藩の藩士たちが海外事情を求めて長崎に集まる。坂本竜馬、吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作など幕末の志士たちも長崎遊学組であり、勝海舟、榎本武揚も長崎海軍伝習所で学んでいる。
 これら長崎遊学者たちが次の時代を担う後継者を育てている。
 大槻玄沢は江戸で芝蘭堂を開設し、宇田川玄真、稲村三泊、橋本宗吉、山村才助が学んでいる。
 緒方洪庵が大阪に開いた適塾では橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、大鳥圭介、福沢諭吉、箕作秋坪など医学以外の分野で活躍する人材を育てている。
 この他、多くの人材を育てたのは坪井信道の日習堂で、緒方洪庵、川本幸民、杉田成卿、黒川長安、広瀬元恭、青木周弼が門下生だ。信道は伊東玄朴と並んで幕府奥医師となる蘭学医であるが、門下生からは医学者の外に化学者や物理学者が育っている。
 東京大学医学部の前身となるお玉が池種痘所を開設した伊東玄朴、大阪大学医学部の前身適塾を開いた緒方洪庵、長崎医科大学の前身で我が国最初の洋式病院長崎養生所を開設した松本良順、順天堂大学の前身順天堂病院を開設した佐藤尚中らは皆、長崎遊学組である。


筆者プロフィール
君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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